平成元年に栃尾又に戻ってきたあるじと私。
あっという間に28年目を迎えました。
今年、25才になる娘が、
まだ3才くらいのときに、初めてじぃと出会いました。
わたしとあるじもまだ栃尾又の新参者。
じぃもまた、栃尾又温泉の管理人として、
栃尾又にやってきた新人でした。
林檎屋で過ごした独身時代は、
ご飯の時に家族が揃うということはまずありませんでした。
父か母のどちらかはお店番です。
これが普通の暮らしだったので、
栃尾又に来てから一番戸惑ったのは、
食事の時に、家族以外の誰かが必ずいたことです。
じぃもその一人でした。
’遅いんだよ、じぃ!’
お昼は12時だって言ってるのに、どうして12時半になってから来るのよっ!’
と、ばあばと、文句を言いながら、
いつしか、
宝巌堂の家族が食べるお昼の時間は、
じぃに合わせて12時半となっていました。
毎日こうして顔を会わせているうちに、
だんだんと、口調も家族に対するのと同じようになっていったね。
言えないことなんてないくらい、
身内のように文句言ったり、怒ったり、
指図したり、頼み事したり、
本当に本当にじぃのこと、こき使ってきたね。
宝巌堂のじぃじを早くに亡くしたので、
あるじも相談に乗ってもらうことも多かったでしょう。
そんなつきあいのじぃも、
寄る年波には勝てず、宝巌堂の改築の前に、
栃尾又を引退することになった。
じぃの3人の内孫と私は
とてもつきあいが長い。
大人になってからはしばらく疎遠になっていたけれど、
フェイスブックのおかげで、
3人とまたつながった。
じぃの自慢の孫の名に恥じず、
それぞれが家族を持って、立派に独り立ちしていた。
じぃのことが大好きでしょうがない3人だ。
5月末、
3人のお母さんから電話があった。
知らせるのもどうかと思ったけれど、
もし、知らせないで何かあったら、
絶対になんで教えてくれなかったんだ!っていわれると思って・・・’
じぃがもう長くないらしい。
’じぃに会いに来てください’
何度もじぃから年賀状で言われていたのに、
なかなか行けなかった。
私の手を握る力がすごく強くて、
まだまだ大丈夫だね、と思っていたのに、
会いに行ってから、それから突然のことだった。
ここら辺のお葬式は、
都会のそれとはまったく違っていて、
’お使い’という、いわば、招待状が届かないと、
お葬式に参列はできない。
家族でも親戚でもないのに、
お使いが届いた。
’俺がもしもの時は、栃尾又も呼んでくれ’
じぃの遺言だったらしい。
私たちを’栃尾又’と呼ぶなんて、ホントにこれじゃ親戚だね。
じぃにとても可愛がってもらった娘も
とんぼ返りでやってきて
じぃに会えた。
たくさんの人に見送られて
あっちに行った。
大往生のじぃだった。
享年91才。
栃尾又温泉は、みんなが
本当にじぃにお世話になりました。
(あら、これはウチのばあばとのツーショットだわ!2人とも若い!)
お客さまの中でも、
きっとじぃのことを覚えている方もおいででしょう。
この人です。
冬になると、自在館さんの旧館の囲いに、
龍神さまの絵がお目見えします。
これはじぃが描きました。
そして、栃尾又温泉の歴史、
これもまたじぃの作品です。
長々、長々、本当にありがとう、じぃ。