ヨネックスと私たち

昨日の新潟日報に

ある訃報が載っていました。

 

え!

 

とあるじ。

 

え!ホント?と私。

 

ヨネックスの創業者、米山稔さんが亡くなったという記事。

95才でした。

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あるじも私もヨネックスの東京本店に勤めていました。

当時はヨネックススポーツ’という会社名。

 

会社名を名乗る、電話の第一声、すんごく言いづらかったーっ。

ス、が、続いてるんだもの!

相手も聞き取れないし、こちらも言いにくい。

そして、最初の’ヨ’が聞こえないとクレーム。

電話が鳴る、電話を取る、

そして、速攻、間髪入れずに

’(ヨ)ネックスです’

って言うんです。聞こえないよ、それじゃ。

たまに電話すると、

あんまり変わってなくて、

苦笑です。

 

今私が、電話を取ってから、

一呼吸いれて、’宝巌堂です’って言うのは

この時の教訓なんですよね。

できるだけゆっくりを心がけて。

 

米山稔さんは、入社した当時は社長で、

初めてお会いしたのは、

社長面接でした。

 

’君はどうして今日、遅れたのかね?’

 

が第一声。

 

’えーーーーっ????

なにそれ~!遅れてないしーーっ!

てか、私のあとの人が遅刻してるんで

先にどうぞ、って言われたんですけどっ!’

 

って、頭の中ぐるぐるよ~~~。

 

そしたら、隣にいた担当の部長さんが慌てて、

社長に説明してくれて事なきを得ました。

(当たり前だけどねっ)

 

面接の内容は全く覚えてない。

ただこの時社長が、

 

’あ、そうでしたか。

それは大変失礼しました’

と、謝罪。

 

30年近く経つけれど、

今でも鮮明に覚えています。

 

当時は、ヨネックスはまだまだ発展途上でした。

ラケットの品質に対しては

まだまだクレームもあったし、

お給料も安かったし、

有給は取れないし、

残業はあったし、

おまけに社員販売はめちゃ高いし、

在庫確保しに、倉庫に日に何度となく走ったし。

今だったらけっこうな環境だったかも。

週3~4も飲みに行っては

会社の文句をブーブー言ってたなぁ。

 

でも、

一緒に働く仲間たちには恵まれてた。

同期も、先輩も、後輩も。

一緒に同じ苦労を分かち合ってきた戦友だな。

 

今年、

ヨネックスを退社したOBOG達の会が

発足しました。

私とあるじは行けなかったけど、

仲間が写真を送ってくれました。

懐かしい顔・顔・顔。

 

社長に面と向かってお会いしたのは

この面接が最初で最後。

でも、上野駅で、

改札に向かってずんずん、ずんずんと

エネルギッシュに歩く姿を何度か目撃したことがあります。

長岡の近く、越路町の本社から東京に出勤してた頃ですね。

 

あの頃は、辞めたい~~!って思ってた会社だったけれど、

今思えば、

素直に感謝の気持ちでいっぱいです。

 

揉まれて、揉まれて、

成長しました!

 

社長、ありがとうございます。

 

ご冥福を心からお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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